秋の気配が色濃くなってまいりました。
今年度の「竹駒よさこい」も三年間続けて中止となり寂しい限りです。
運動会も園児一人に保護者一人参加との制限もあり「せめて、おじいさん・おばあさんに『よさこい』だけでも見せて欲しい」との卒園を控えている5歳児の親御さんから希望が出されて特別にご披露することとなり、秋晴れの下、園庭で子ども達共々喜びを分かち合う事ができました。
まだまだ行動制限は緩くなりましたが感染状況は無くならず、その意識の切り替えが難しく悩むところです。まだまだ続くの…?寂しい思いが払拭できずに残念に思います。
今月の聖句は「わたしの隣人はだれですか」その後に続きます。
ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。 おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪いその上その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。たまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。
同じように通りかかったレビ人も見て見ぬふりをした。
しかしあるサマリア人は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。翌日、そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡していった『介抱してあげてください、もし足りなければ帰りに私が払います』これは聖書に書かれている「善きサマリア人」のたとえ話です。
この箇所は隣人に対するキリストの愛を示している箇所でイエスは私たちに「一体だれが、このように苦しんでいる人に近づき、心から愛した人なのですか?」と、問われているのです。
サマリア人はイエス様ご自身、道端で倒れていた旅人は私たちを指すという捉え方があります。
キリスト教国家では「善きサマリア人の法」として病人や負傷者その他の困っている人を助けようとした行為が結果的に望ましくないものだったとしても救助者のその責任を問わないとする法律があるそうです。もちろん国外の話で日本では立法化はできません。
「愛」とは自分の都合に目を向けたり、見返りを求めたりせずに他者の痛み苦しみに共感して、その必要に応えて犠牲を払う事であり、目の前に現れた痛みや苦しみの中にある人に対して目配り、気配り、心配りの視線が持って「あなたは困っている人に気づき、隣人になろうとしていますか?」との問いに対して「はい」と言えるようになりたいです。しかし、心の弱い私たちは、自分本位で考えてしまい、関わりたくない、面倒になるかも…などと考えてと通り過ぎてしまいがち、自分の思いを捨てて困っている人を助ける強い心(勇気)を下さい…出会う人同士が本当の隣人となれるようにと祈っております。
2011年3月11日の東日本大震災の時に経験した、あの助け合いの絆、あの時を思い起こして「分かち合い」の心をいつまでも持ち続けていきたいと思います。